
こんにちは〜
今日は、「上であることをひたすらに求めるのは現代病」っていう話をしたいと思います。
私たちは「上であることには価値がある」という固定観念を抱いています。
モノ余りの時代において、私たちが求めるは「すごい」です。(※マウンティングワールド〜SNS疲れの傾向と対策〜)
すごい人であることによって自尊心を保つためには、なんらかの尺度において上であることが必要になります。
だから、私たちはなんらかの分野で上を目指すことになります。
しかし、実際にはそんなことに価値はありません。
だって東大出身であることを鼻にかけて偉そうにしている管理職よりも断然、目の前の仕事を一生懸命こなして誰かに幸せをプレゼントしている平社員の方が人間として魅力的でしょう。
魅力の本質は「すごい」ではなく「愛」です。
すごいだけで愛のない人の周りには、本人ではなくそのアクセサリーを求めて人が集まってきます。
逆に、愛のある魅力的な人の周りには、本人を求めて人が集まってきます。
そのどちらが幸せになるのかは自明でしょう。
現代人の多くは洗脳されています。
「上であればあるほど良い」という洗脳です。
固定観念というのは、考えないことから生まれます。
あなたもこの記事が少しでも気になったのであれば、続きを読んでみてくださいね。
ひたすらに上を求める現代人
私たちは物心ついた時には一つの世界観の上で生きています。
それは「上であればあるほど良い」という世界観です。
テストの点数は30点より100点の方が偉い。
友達の数は10人より100人の方がすごい。
元カノの数は3人より10人の方がすごい。
偏差値は高い方がすごい。
勉強ができることに価値があると信じられている以上、親からしたらやっぱりテストの成績が良いと安心して褒めてしまうものです。
まだ社会的に関わる人の数が少ない子供にとって、親に褒められることは最高に嬉しいことですし怒られることは最も恐れる事態です。
当然、親の世界観は絶対的な世界観として子供へ伝わります。
他にも、「勉強ができてスポーツも万能」という出木杉くんみたいな子供は「すごい」と言われ尊敬を集めます。
文武両道が良いってのも普遍的価値を持っているように認識されていますね。
当然、そんな子供は親や先生に褒められます。
その結果できあがるのが、「上であればあるほど良い」という世界観です。
だから私たちは大人になっても、「努力することは良いこと」「上であることは良いこと」という固定観念を信じて疑いません。
そしてそんな自分であることによって自尊心を保ちます。
たしかに、他の人にはできないことができるということが経済的成功に結びつく側面はあるでしょう。
そもそも努力して他の人にはできないことを成し遂げることに価値があるんだっていう人もいるでしょう。
しかし、これって当然のことでしょうか?
あなたはこの固定観念について本気で考えたことはありますか?
この常識で判断すると、ゴールドマンサックスで働いている人とゴミ清掃員だと前者の方がすごいことになります。
一生懸命勉強をして自分が行きたかった私立大学に行った学生よりも、東大に合格した学生の方がすごいと言われます。
もちろん、結果じゃなくて努力したというプロセスがすごいんだという人もいるでしょう。
でも、その努力は自分がすごいと言われるためのものである場合がほとんどなわけです。
「甲子園に行ってあの歓声を一身に浴びたい」という想いから、毎日軍隊のような生活を送っている高校球児がいたとして、周囲はその努力を称賛します。
しかし、それはあくまでも本人が自分のためにその行動を選択しているだけです。
その本質は「おなかが空いたからごはんを食べた」という行動と何ら変わりありません。
挑戦する対象の難易度が高いか低い(もしくはゼロ)かというだけであって。「自分の願望を叶える」ために行動しているという点では同じです。
難易度の高いことに挑戦することが、難易度の低いことに挑戦することよりもどうして価値があるのでしょうか。
これこそ固定観念だと思うのですが、あなたはどう思いますか?
上であることにばかり価値を置くのは危険
結局、人間は感情の生き物です。
どこまでいっても、魅力のない人間は不幸なままです。
逆に魅力さえあれば、たとえ経済的に裕福でなかったとしても人に恵まれて幸せな人生を歩むことができます。
目の前の人、大切な人を幸せに大切にできること。
そのための、「上にいくための努力」です。
いつまでも自分がすごいと言われるための努力を続けるなんていう赤ちゃんのような思考はやめましょう。
さて、今日はここまでにします。
さようなら。